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鹿児島ダイビングエッセイ〜錦江湾の生態観察・生態写真で得た新しい視点〜

海のレポート

沖縄に居を構える水中写真家・上出俊作さんによる、海とダイビングにまつわるエッセイ連載をお届けします。

今回、上出さんが向かったのは、鹿児島県桜島のお膝元、錦江湾。
日頃フィールドにしている沖縄の海とは似ても似つかぬ水中環境を前に、どういった作品を残したのでしょうか。

そして、芽吹いた作品作りの新たな可能性とは……?

桜島

助手席から外の景色を眺めると、海面がゆっくりと流れていく。
僕たちはいつの間にか、鹿児島港を出発したらしい。
フェリーは音もなく、東に向かって進んで行く。

ダイビング器材と撮影機材、さらには10本ほどのシリンダーを積んだハイエースの中、僕たちはこれから潜る錦江湾の話に夢中だった。
あと15分もすれば目的地に辿り着く。
桜島は、もう目と鼻の先にあった。

その2日前、僕は沖縄から鹿児島に向かう機上にいた。
着陸10分前、そろそろ鹿児島の景色が見えるかと思い日よけを上げると、たった1時間ちょっとのフライトだったにも関わらず、眼下には異国の景色が広がっていた。
山のてっぺんにかかる白いモクモクが噴火煙なのか、あるいは雲なのか、僕にはわからない。
しかしそれはやはり火山に見えたし、火山が静かな湾の中に浮かんでいる様子は異様で、美しかった。
「桜島って本当にあるんだ」と年端もいかない子供のような感想を抱くと同時に、ここを潜るのかという心の高鳴りがあった。

桜島は鹿児島湾、別名錦江湾に浮かぶ活火山だ。
「浮かぶ」と言っても、実際には湾東部の大隅半島とつながっているから島ではない。
とはいえ1914年の大正大噴火以前は陸と繋がっていなかったというから、「火山島」と言っても差し支えないだろう。

鹿児島の海を潜り続けるダイビングショップSBのオーナーガイド松田康司さん、通称こうちゃんの話によると、錦江湾は水中環境としてもかなり特殊らしい。
水深200mを超える深海と活火山を同時に有しているというだけでも、他に似た海はないと言う。
外海との水の入れ替わりも少なく、このような特殊な環境下では、ある特定の生物が極端に繁栄する傾向にあるのだそうだ。

自分にとって、初めての九州の海。
多くのダイビング玄人たちを虜にしてきた錦江湾。
そこは自分の目にどう映るのだろうか。僕はそこで何を感じ、何を残せるのだろうか。
そんなことを何とは無しに考えていると、まもなくフェリーは桜島に到着し、ハイエースは先を急ぐようにダイビングポイントへ向かった。

水中へ

水中に入ると、それは確かに初めてみる海だった。
沖縄と鹿児島、隣の県ではあるけれど、水中環境もそこで暮らす生き物も全く違う。
珊瑚礁の海と溶岩の海は、似ても似つかない。当たり前といえば当たり前だろう。

落ち着いて辺りを見回してみると、ちょこちょこ動き回るイソハゼが目に入った。
よく見ると、岩の上だけでなく、砂地の上にもイソギンチャクの上にも、いたる所に乗っている。
キンホシイソハゼだった。全てキンホシイソハゼだった。

沖縄では一つのポイントでも、ハナグロイソハゼやアカホシイソハゼ、ナデシコイソハゼなど、複数種のイソハゼと出会うことも多い。
しかし、錦江湾は違った。そこではキンホシイソハゼが他のイソハゼたちの繁栄を許さず、唯一の王として君臨しているようだった。
まあ、王と呼ぶには可愛くて小さすぎるのだけれど。

せっかくならキンホシイソハゼとマメスナギンチャクを一緒に撮りたいと思った。
マメスナギンチャクとは、錦江湾でよく見られるサンゴやイソギンチャクの仲間で、とにかくカラーバリエーションが豊富。
「錦江湾といえばマメスナ!」と、鹿児島に来る前から勝手に思っていた。
キンホシとマメスナが一緒に撮れれば、一石二鳥ではないけれど、ひとまず錦江湾らしい写真が撮れるのではないか。
ポップな色のマメスナに乗っているキンホシの正面顔が撮れれば、「可愛い〜!」という歓声が巷の女子たちの間に響き渡るのではないか。

そんな邪な気持ちに気づかれないように、ガイドのメイちゃんこと射手園芽さんに、ピンク色のマメスナギンチャクを紹介してもらった。
しばらくマメスナの前でじっとしていると、こちらを伺うようにキンホシイソハゼが集まってきた。
と言うより、突然人間が現れて一時的に隠れた魚たちが、元いた場所に戻ってきたというだけなのだろう。
マメスナの上にキンホシが乗るたびに、僕はそっとキンホシの正面に回りこみ、息を堪えてシャッターを切った。そんな幸せな時間が一時間近く続いた。

そろそろ上がる頃かなと思い顔をあげると、ちょうどメイちゃんがこちらに泳いでくるところだった。
スレートに何か書いている。
「そろそろ上がりましょう」とか何かかな、と思ったら全然違った。
覗いてみると、「ヒトデの放卵見ますか?」と書いてある。

ヒトデの放卵……はっきり言って、そんなに興味はなかった。
まだ時間があるなら、キンホシ&マメスナコンビをもっと撮っていたいとさえ思った。
でも、そんなことは言えない。なぜなら、ダイビングショップSBは、生態観察を一つのウリにしているから。
「いや、ヒトデの放卵はパスで」なんて答えたら、もううちには来なくていいと言われてしまいそうな気がした。
もちろん、生態観察専門ショップではないし、そんなことを言う人たちでは無いのだけれど。

メイちゃんの後を追って泳いで行くと、オオアカヒトデが岩の上で立ち上がっていた。
それはなんともまあ不自然な姿というか、星形で砂地の上に佇んでいるのがヒトデだと思っていた僕にとっては、水中に赤いチョモランマが現れたような、唐突な光景だった。

そこでは、さらにおかしなことが起こっていた。
放卵と言われれば、どこかから卵が出るんだろうということは僕にもわかる。
ヒトデの形状から言って、おそらく真ん中からブシューと吹き出すんだろうと思っていた。
しかし、卵は足から出ていた。足から卵を産む生き物なんて聞いたことがない。
でも、オオアカヒトデの真っ赤な足の至る所から、絞り出されるように、卵の筋が海中に放出されていた。

オオアカヒトデの真っ白な卵を目にした瞬間、僕の中で何かのスイッチが入ったのだろう。
気づけばスーパーマクロコンバージョンレンズ、SMC-1をハウジングに取り付け、卵撮影モードに入っていた。

変化

僕にとって、卵は特別だ。
まん丸の卵が撮りたくて、北海道にも東北にも行った。
サンゴの卵が撮りたくて、きついウネリに耐えながら潜ったこともあった。

ヒトデの卵も、それらと同様に美しく、「ちゃんと撮ってね」と言われているような気がした。
もちろんそれは気のせいなのだけれど、ちゃんと卵を撮らなければと思った。

でも、その時僕に訴えかけてきたのは、卵そのものの美しさだけではない。
今持てる全ての力を振り絞って立ち上がり、時々倒れながらそれでも放卵を続けるオオアカヒトデ。
その様子を優しく見守るダイバーたち。
そこにある空気の中に、暖かな手触りを感じたのだ。

オオアカヒトデの放卵を撮影したことが、僕の中の何かを変えてしまったのかもしれない。
これまではほとんど興味のなかった生態写真、そしてヒトデに、僕は惹かれていた。

翌日、またもやダイビングの最後の最後で、今度はコブヒトデモドキの放卵を観察する機会に恵まれた。
僕がその場に到着した時には、すでに放卵が終わろうとしていた。

もしかしたら、僕は放卵のピークに間に合わず、一番の見所を逃してしまったのかもしれない。
でも、そんなことは全く気にならなかった。
この美しい、生命が輝く瞬間に間に合っただけで嬉しかった。

これまで僕は、生態観察、あるいは生態写真という言葉の本当の意味を理解していなかったのだろう。
それはどこか、産卵や捕食などの決定的瞬間をおさえることに喜びを感じる、刹那的な、シューティングに近いものだと思っていた。

でも、今はそう思っていたことを恥ずかしく感じる。
生態を観察するということは、すなわち命の流れと向き合うということ。
決定的瞬間の前後にもたくさんのドラマがあり、それぞれに輝ける瞬間がある。
その過程をつぶさに観察するからこそ、生き物たちが人知れず放つ輝きをとらえることができるのだろう。

これまで僕は、水中で暮らす生き物たちの日常を丁寧に切り取ろうと思い撮影してきた。
特別な技も決定的瞬間も必要なく、彼らはそのままで美しく魅力的だと思っていた。

それはそれで、間違ってはいないのかもしれない。
でも今は、それだけではないような気もする。

生き物たちにもそれぞれの人生、あるいはウオ生とかヒトデ生とかいうのかもしれないが、ともかく生まれてから死ぬまでのドラマがある。
その全てに意味があり、全てが決定的瞬間だ。
つまり、そのどこを切り取ってもひとつの生態写真と言える。

とするならば、生き物たちの日常を切り取ることも、生態写真を撮ることも、本質的にはあまり変わらないのかもしれない。
とはいえ、彼らの命の流れに意識を向けて撮影するということは、ただ日常を切り取ることとはやはり違うのだろう。

ある時こうちゃんは、「なぜ皆枯れゆく海藻は撮らないのだろう」と言った。
生態観察を人生の中心に据える彼にとって、繫栄していく様子も、枯れていく様子も、どちらも平等に美しいのだ。

彼は海底に横たわる、死んだイラを撮っていた。
写真を通して見るイラの鰭は、まるで今も生きているようにキラキラとしていた。
それは間違いなく、僕には撮れない写真だった。

人間の都市生活の常識やリズムを一度忘れて、生き物の立場で、自然と真剣に向き合う。
命が生まれてから消えていく間に数多ある小さなドラマに意識を向け、生き物が放つ小さな輝きをもとらえる。
それが生態観察であり、生態写真なのだと思った。

これまで遠くにあったそれらの言葉は、鹿児島で、突如として身近なものとなった。
これからも僕は、水中で暮らす生き物たちの日常を撮影していく。
しかし、彼らを観察する目は、これまでと同じではないだろう。

鹿児島滞在も終盤に差し掛かった頃、白化したサンゴイソギンチャクの中で暮らすクマノミを撮影した。
後からイソギンチャクの部分を拡大して見てみると、真っ白なのにもかかわらず、僅かに褐虫藻が残っていた。

ここにも、それぞれの命のギリギリのせめぎ合いがあるんだなと思った。
僕の目にはただ美しく見える目の前の光景も、それぞれの生き物にとっては意味のある瞬間だ。
自然は強く儚い。その誰しも知ることの意味をもっと感じて、理解する必要があるような気がした。

鹿児島に滞在した一週間で、自分の写真が劇的に変わったということはない。
しかし、作品づくりの新たな可能性は感じた。自然を見つめる視点も、少し変わったかもしれない。

自分の仕事は、写真を通して世の中に新しい視点を提供することだ、といつも思っている。
「世界はこんな風にも見えるよ」と。

今回は逆に、鹿児島で出会ったみんなから、新しい視点を与えてもらった。
「生き物たちは、今こんなに輝いているよ」と。

命を燃やし輝いていたのは、錦江湾の水中で暮らす生き物たちだけではなかった。
限りある人生を掛け、鹿児島の海と向き合い続けているみんなも、同じように輝いていた。

彼らが長い時間をかけ醸成してきた自然との関わり方は、それ自体を一つの作品と呼べるかもしれない。
目に見えないその濃密な作品は、トロリとした一粒の雫となって、僕の心の表面を温かく包み込んだ。

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上出俊作

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水中写真家。 1986年東京都生まれ。 名護市を拠点に「水中の日常を丁寧に」というテーマで、沖縄の海を中心に日本各地の水中を撮影。 被写体とじっくり向き合う...

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