東北ダイビングエッセイ〜卵をめぐる究極のかたちと生命の営み〜
沖縄に居を構える水中写真家・上出俊作さんによる、海とダイビングにまつわるエッセイをお届けします。
自らの“卵愛”を見つめ、究極の曲線を求めて北へ。
そこでこみ上げてきた、自然を撮ることへの思いとは?
卵をめぐる旅路と思索を綴るエッセイです。
ぜひ、この軽妙な言葉のリズムに身を委ねてみてくださいね。
たまご考
僕は卵が大好きだ。
理由は、はっきりとはわからない。
その中に詰まった数多の命に、未来への希望を感じるからだろうか。
卵を見ていると、いつの間にか頭の中を色んなストーリーが駆け巡って……というわけではないのだけれど、ほっこりした気持ちになるのは確かだ。
実際には、今は皆同じように見えるそれぞれの命も、これから別々の運命を辿っていくのだろう。
もしかしたら、すでに何かしらの競争にさらされているのかもしれない。
大人になって繫殖できるのは、ほんの一握り。言うまでもなく自然は厳しい。
何を想像するかは人それぞれだけれど、やはり卵には、命や時間を意識させる力がある。
僕が卵に魅かれる理由は、きっとそれだけではない。
おそらく、その透明感にもある。
僕は昔から、透明なものが好きだった。
小さい頃、ガラスのおはじきやビー玉をたくさん持っていた。
今でもキッチンの棚には、琉球ガラスで作られたお皿やグラスがたくさんある。
最近はなぜだか、ガラスの風鈴が欲しいと思っていた。
家ではほとんど窓を閉め切っていて風鈴の出番がなさそうだったから、買わなかったけれど。
明るい未来を感じさせてくれる卵。
ガラスのように透き通っている卵。
僕はそんな魚の卵にどうしても魅かれてしまうので、見つけると撮らざるを得ない。
家の近くの海でも、しょっちゅうナカモトイロワケハゼやクマノミの卵を見つけては、嬉々として撮影している。
そんな僕でも、さすがにちょっとマンネリ化というか、はっきり言って飽き始めていた。
なぜなら、自分で見つけられる卵の種類が少なすぎるのだ。
沖縄で過去5年間に撮影した卵の写真を全て見てみても、やはりナカモトイロワケハゼとクマノミ以外は登場しない。
他の卵も見てみたい。
もう一つ思うところがあった。
僕が普段目にしている卵は、どうも細長い。
タイ米を想像してもらうといいかもしれない。
どうでもいいけれど、タイ米を想像しようと思ったら、子供の頃の記憶が蘇ってきた。
たしか、日本が冷夏の影響で米不足になり、タイ米を輸入したのではなかっただろうか。
「こんなに細い米があるんだ!」とびっくりしたような、しなかったような。
ちなみに、タイ米は品種としてはインディカ米、日本米はジャポニカ米というらしい。
何が言いたいのかというと……
インディカ米みたいに細長い卵ではなく、ジャポニカ米のような丸っこい卵が見たい!
ということかと思ったけれど、これでは形状の差が小さすぎて僕の思っていることとは違う。
「お米みたい細長い卵じゃなくて、ビー玉みたいにまん丸の卵を見てみたい!」
これが僕の思っていたことで、そういう卵が存在することを僕はちゃんと知っていた。
北へ
去年の5月、僕はまん丸の卵を求めて北海道に向かった。
現地のベテランガイドさんに、ヒメフタスジカジカの卵を紹介してもらった。
ずっと憧れていた、これ以上丸くなれないくらい丸い卵との邂逅。
嬉しくて嬉しくて言葉にできなかった。
写真もとってもお気に入りだったので、今年開催した写真展でも展示させてもらったし、写真集には2カットも入れさせてもらった。
北海道での撮影を経て、僕はもう一つの事実に気づいてしまった。
自分は卵の持つ「未来」や「透明感」という要素だけに魅かれているのではない。
その曲線の美しさに強く魅かれているのだ、と。
最近はエビやカニの写真も撮るけれど、ちょっと前まで甲殻類はあまり好きではなかった。
理由は簡単だ。足が真っすぐだからである。
カニなんかは特に、体が角張っていたりもする。
海の中の生き物に限らず、僕は直線的なものやカクカクしたものがあまり好きじゃない。
画面が長方形のダイブコンピューターの方が見やすいことは知っているけれど、どうしても丸顔の方を選んでしまう。
日本酒は升ではなくお猪口で飲みたい。
たまに、「どんな女性が好みなんですか?」と聞かれることがある。
そんな時はたいてい、「自分の人生を生きている人」とか「穏やかな人」とか、ふわっとした表現でごまかす。
でも中には、「それはわかったけど容姿は?」とねちっこく聞いてくる人もいるものだ(全然嫌ではない)。
そんな時は、決まってこう答えている。
「曲線が美しい人」と。
これでもまだ抽象的な気はするし、逃げているように感じる方もいるかもしれない。
でも、これが本心だし、曲線は僕にとって他の何よりも上位に位置する概念と言わざるを得ない。
別に僕は女性だけに曲線を求めているわけではない。
被写体にも求めるし、コンピューターにも求めるし、日用品にも求めるというだけだ。
そして曲線の究極の形が球体である。
球体の卵は、どうやら北の海で見られるらしい。
それを知って、去年は北海道に向かい、今年は宮城県に向かった。
2022年11月、こうして僕は女川の海にたどり着いた。
三陸地方南部に位置する女川の海では、10月頃からクジメが産卵し始め、11月にはアイナメの産卵も始まることが多い。
沖縄で普段見ている卵は、産みつけられてからだいたい一週間くらいで孵化することが多いけれど、北の卵は違う。
なんと、クジメもアイナメも、孵化まで一ヶ月前後かかるらしい。
つまり、11月に行けば、クジメの卵もアイナメの卵も、どちらも見ることができるはず。
そんな下心があったから、11月を選んだ。
クジメの卵もアイナメの卵も、どちらも真ん丸で、文句なしで美しい。
どちらかというとアイナメ人気の方が高いような気もするけれど、好みによるのかもしれない。
僕はどちらも見たことがないので、両方見たい。
女川でお世話になるダイビングサービス、ハイブリッジさんのブログは事前にチェックしていたので、クジメがすでに産卵していることは知っていた。
でも、アイナメについては書いていなかった。まだ産卵していないのかもしれない。不安が募る。
初日の朝、「マサさん」の愛称で親しまれているハイブリッジの代表・髙橋正祥さんが、女川の海の魅力や旬の生き物について紹介してくれた。
マサさんの話によると、ハイブリッジではアイナメの産卵がまだ確認できていないらしい。
でも、もういつ産んでもおかしくない状況だという。
今思えば、僕は事前に卵愛についてマサさんには話していなかった。
だから、アイナメの卵にこだわる僕を見て、不思議に思ったことだろう。
あるいは、「卵卵うるさい写真家だな」と思われていたかもしれない。
帰るまでにアイナメが産卵しなかったら悲しいなと思いつつ、そんなことはおくびにも出さず、僕はひとまずクジメの卵を撮影することにした。
クジメの卵の話をする前に、イクラを想像してみて欲しい。
醤油漬けで売られている、あのイクラだ。
イクラは赤い。
なぜ赤いのかというと、親が餌として食べる甲殻類の色が、卵にまで移っているらしい。
イクラ以外にも、赤い卵を産む魚はたくさんいる。
クマノミの卵だって、産みたては真っ赤だ。
赤とか透明とか白とか、そういう色の卵を、僕たちは見慣れている。
でも、クジメは違う。産んだばかりのクジメの卵は青い。
紫と表現する人もいるようだし、産みたてと3日後でも違うのだろう。
個体差だってあるのかもしれない。
とにかくクジメの卵は、僕がこれまでに見た他のどんな卵とも似ていなかった。
事前にSNSで見まくっていたので「なんだこれは!」というびっくり感はなかったけれど、それでもやはり、自分の目で見た時には感動した。
自然界にこんな色が存在していること自体が不思議だなと思いつつ、これを不思議だと思っている僕は、自然のほんの一部しか知らないんだなとも思った。
クジメの卵も、発生が進んでいくにつれ、青みは消えて透明に近い色になっていく。
それでも、ハッチアウト寸前までわずかながら青の名残があるように見えて、なんだか愛おしかった。
クジメは10月から産卵し始めていたので、産んで数日の卵からハッチアウト寸前の卵まで、様々なステージを観察できた。
1本目はこっちのクジメを撮ったから、2本目はあっちのクジメを撮って……という感じで、まさにクジメ三昧である。
もちろん女川の海には、クチバシカジカやフサギンポなど、愛らしい生き物が他にもたくさんいる。
でも、今の僕には卵だけでよかった。卵を撮ることが、自分の使命のように感じていた。
それは全くの勘違いだし、クチバシカジカに全く興味を示さない僕を見て、マサさんはきっと訝しんでいたのだろうけど。
アイナメの卵
女川2日目、僕がクジメの卵に溺れている間に、ハイブリッジのガイドさんたちがアイナメの卵も見つけてくれた。
水中スレートに書かれた「アイナメの卵ありました!」という文章を見て、ついついウホウホしてしまった。
丁寧に「行きます?」と聞いてくれたので、右手の親指と人差し指に力を込めて、全力でOKサインを出した。
マサさんの後ろを泳いでついていくと、徐々に水深が浅くなっていく。
そんなに浅い所に行かないで欲しい。だって、浅くなればなるほどうねりで揺れて、撮影が難しいから。
でも、そんなことは言っていられない。夢にまで見たアイナメの卵だ。
浅かろうがうねりがきつかろうが、見つけてくれたことに感謝しなければいけない。
水深5mまで浮上した所に、それはあった。
ライトで照らしたりしなくても、キラキラと輝いていた。
自分の言葉で表現したかったけれど、皆が言っていた「宝石みたい」という例え以上に美しい表現は見つからなかった。
せめて、自分なりの撮り方で切り取りたい。
だって僕は写真家だし、「上出さんがどう撮るか楽しみ」といつも言われているから。
でも結局、アイナメの卵と対峙したら、いつも通りの撮り方しかできなかった。
それでよかったと思う。
目の前の生き物の魅力を最大限写真に乗せられるように、一つひとつやるべきことをやる。僕にはそれしかできない。
自分らしさもオリジナリティも、別になくてもいいし、後から誰かが感じてくれたらそれはそれで万々歳。
宝石の輝きを邪魔するものを一つ残らず排除しよう。
ファインダー越しに輝く命にうっとりしながら、僕はシャッターを切った。
その後は、アイナメの卵が続々と見つかった。
どの卵塊の近くにも、黄金色に輝く雄が佇んでいる。
もちろん、自分の卵を守っているのだ。
アイナメの雌は、それぞれの雄が持っている縄張りに出かけて行って、そこで産卵する。
話によると、モテる雄と、モテない雄がいるらしい。
モテる雄の所には次々に雌がやってきて産卵するので、ひとつの卵塊に見えても、複数個体の卵がくっついているということもある。
ちなみに、同じ種類の雌でも、個体によって産む卵の色が少しずつ違う。
なのでよく見れば、その雄がどれだけモテるかは、なんとなくわかるのだ。
どうやら魚社会では、一夫多妻制が普通らしい。
優しさとか気遣いとか言っている場合ではない。求められているのは、ゴリゴリの筋肉と体力。もしかしたら、顔の良し悪しもあるのかもしれない。
どちらにしろ、シンプルで厳しい世界である。
結局イケメンマッチョのプレイボーイがモテるのかと思うとなんだかやるせない気持ちになる。
でも、全ての子供たちが旅立つまで雄だけで面倒を見るのだから、プレイボーイといえど根は真面目なのかもしれない。
その辺のチャラ男より、よっぽど筋が通っている。
さて、魚のお父さんの気持ちは実際にはわからないけれど、アイナメの雄もクジメの雄も、せっかく雌が産んでくれた卵を孵化させることに必死なのは確かだ。
もちろん、人が撮影しようと近づけば警戒する。近づきすぎれば、露骨に威嚇することもある。
撮影しながらそんな様子を見ていると、ちょっと申し訳ない気持ちにもなった。
どう考えたって僕は異物だし、邪魔者でしかない。
元々じっくり時間をかけて撮影する方だけれど、早めに切り上げようかなと思うときもあった。
そんなことを言っていたら、自分にとっての作品はなかなか撮れないのかもしれない。
でも、「撮らない」という選択をすることも、時には必要だろう。
アラスカを撮り続けた写真家、星野道夫さんの作品と文章に触れてから、僕の中で少しずつその気持ちが大きくなってきている。
カメラを向けることで何かを壊してしまうのなら、カメラをおろす勇気を持ちたい。
撮るという選択をしたのなら、できるだけそこに流れる時間を乱したくない。
それは自分にとって、どこの海でも同様に考えるべきことだ。
もちろん沖縄でも、生き物の親子を撮影することもある。
でもどういうわけか、女川ではそんな思いが、いつも以上に頭の中の多くの部分を占めていた。
きっと、卵という被写体がもつ力によるところが大きかったのだろう。
命のつながりや連綿と続いていく時間が、意識しようとしなくても連想される。
ただ、それだけではないようにも思う。
あるいは北の自然そのものが、何か特別な力を持っているのかもしれない。
それがどういうことなのか、はっきりとはわからない。
実は女川滞在中、一度だけ川に遡上してくるサケを観察させてもらった。
最後の力をふり絞りながら荒々しく泳ぐサケたちの横には、すでに繁殖行動を終え息絶えた個体の骨が、そっと横たわっていた。
それは場違いなほど真っ白で、神聖な気配さえ纏っていた。
生まれる命があれば、消えていく命もある。
当たり前のことだし、場所も種別も関係ない。
それなのに、なぜだか北の自然を前にすると、そんなことにわざわざ思いを馳せてしまう。
僕はただその一端を垣間見ただけで、何かを理解したわけではない。
ただ、それは自分にとって、今は想像できないような、何か根源的な意味を持つことのように感じた。
この記事へのコメントはありません。