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沖縄ダイビングエッセイ〜潜り続ける名護湾で過ごす時間と思いを馳せたクジラのこと〜

ダイビングスポット・名護湾
海のレポート

沖縄に居を構える水中写真家・上出俊作さんによる、海とダイビングにまつわるエッセイをお届けします。

今回は、住まいから程近い名護湾について、改めて語ってくださいました。
近いから通うとうそぶきながら、実は名護湾に潜りやすいからと棲み家を名護に求めていた上出さん。

もはや生活の一部となった名護湾で過ごす時間とそこで思いを馳せたクジラのこと。
写真と合わせて、じっくりゆっくりご覧ください。

名護湾は普段着の海

ぼんやり海を眺めていると、水面から「ポコッ、ポコッ」とアオウミガメが顔を出す。
だいたいいつも同じ場所に現れるから、ついついその辺を気にして見てしまう。
ちゃんと現れてくれればホッとするし、姿を見せてくれないと少し不安になる。

もしかしたらウミガメも、「いつもあそこでぼーっとしている人間は今日も来てるのかな」という具合で、こちらの様子を伺っているのかもしれない。
もちろん、ただ息継ぎをしているだけという可能性もあるのだけれど。

どちらにしても、そんな光景や妄想が僕の心にある種の潤いを与えてくれていることに違いはない。
それはどこまでも平和でイノセントな、かけがえのない日常である。

視線を上げると、対岸に名護の街が見える。
街と言っても、那覇のような高層ビルはない。

海岸沿いには人工ビーチが整備され、その周辺に室内運動場や野球場、ラグビーコートなどが点在している。

この人工ビーチの名前は「21世紀の森ビーチ」。
海だか森だかよくわからないし、なんで21世紀なのかも知らない。
きっとこの名前が影響しているのだろう。県外からの観光客もあまり来ない。
僕だって初めての沖縄旅行で「エメラルドビーチ」と「21世紀の森ビーチ」のどちらに行くかを迫られたら、間違いなくエメラルドの方を選ぶはずだ。
沖縄に来ていきなり森を目指すなんてよっぽどの物好きだし、本当に森に行きたいのならばさらに北のやんばるを目指せばいい。
名前というのは重要なのだ。

では、21世紀の森ビーチが田舎の心寂しい、皆に忘れられた人工ビーチかというと、全然違う。
ここは、名護市民にとっての憩いの場であり、思い思いの時間を過ごすことができる大切な場所。
犬の散歩をしたり、ビーチパーティーをしたり、本を読みながらぼーっとしたり。
最近は、ヨガやSUPをしている人もよく見かけるようになった。

ビーチに沿って舗装路も整備されているから、僕も週に何度か、ランニングをしながらこのビーチを眺めている。
空がきれいに焼けそうなときには、カメラと三脚を持って行くこともある。
海がエメラルドでなかろうが、砂が天然でなかろうが、僕はこのビーチが好きだ。

名護市民にとって、ここは生活の一部であり、憩いの森なのである。

必要十分ということ

対岸に行きっぱなしになってしまった話を、こちら側に戻さなければならない。

僕は今、名護湾の北側にいる。
言い換えれば、僕は今、本部半島の南側にいる。

ここは僕の家の近所。
午前中1本潜って、朝パン屋さんで買ったサンドウィッチを食べながら休憩しているところだ。

沖縄本島には、ダイビング雑誌にはわざわざ掲載されないようなビーチダイビングのポイントがたくさんある。
誰かが管理しているわけではないから、決まったポイント名がついているわけではない。
地名で呼ぶ人もいれば、オリジナルのポイント名をつけている人もいる。

僕が今いるのは、そんな数あるダイビングポイントのうちの一つだ。
やはりこの場所も、様々な呼ばれ方をしている。
ここでAというポイント名を使えば、普段Bと呼んでいる人々の反感を買うかもしれない。
あるいは、Cという上出オリジナルのポイント名を使えば(そんなものがあるかどうかは別として)、これ以上ややこしくするなと怒られるかもしれない。

よって、今僕がいるこのダイビングポイントは、便宜上「名護湾」と呼ぶことにする。
ポイント名にするには範囲が広すぎる気もするが、まあいいだろう。
特別魅力的な響きではないが、少なくとも間違ってはいない。
変に捻った名前をつけると失敗するというのは、すでに証明済みだ。

名護湾に初めて潜ったのは、7年ほど前だったと思う。
それから毎年潜り続けているし、沖縄本島を離れることが多くなってきた今も、おそらく年間100日くらいは名護湾で潜っているのではないだろうか。

では、なぜ僕は名護湾に通い続けるのか?
そこにはどんなアイデンティティがあるのか?
名護湾の何が、そんなにも水中写真家を惹きつけるのか?

ビシッと答えられたら、どれだけかっこいいだろう。
写真家というのは、そういうカッコ良さを求められる職業なのかもしれない。

でも、ついさっき僕は書いてしまった。
ここは家の近所だ、と。
今さら嘘はつけない。

僕が名護湾に通うのは、家から一番近いスーパーマーケットに通うのと同じような意味合いである。
とりあえず近いから行ってみる。買い物をしているうちに、そこで必要十分だということに気づく。他のスーパーに行くのが億劫になる。
つまりはそういうことだ。

僕にとって幸運だったのは、成城石井のような華やかさがなくても、あるいはユニオンのような沖縄らしさがなくても、そこに業務スーパーのような安定感と底力があったことかもしれない。

はっきり言って、名護湾は地味だ。
海岸はコンクリートと消波ブロックで整備され、南の島の海岸の趣とは程遠い。
水中を覗いてみても、サンゴ礁は発達していない。

でも、ここで十分なのだ。
派手さはなくても、目を凝らせば、そこには数えきれないくらいの生き物と色が溢れている。
名護湾を潜り込んでいる腕利きガイドさんの手にかかれば、珍しい生き物もザクザク見つかる。

僕自身には珍しい生き物を見つける力もないし、海をゼロから開拓するような気概も備わっていない。
それでも、やさしいガイドさんたちに助けてもらいながら、日々新鮮な気持ちで潜れている。
そして、小さな生き物たちとにらめっこしながら、心ゆくまで撮影を楽しめている。
いつも水中の情報を教えてくれるガイドさんには、感謝してもしきれない。

シャッターの不思議

午前中、普段よく行くエリアをぐるりと回ってみた。
いつものハゼたちだけでなく、はじめましてのメンバーたちも迎えてくれた。
シュークリームくらいのイソギンチャクにちょこんと居座るトウアカクマノミも愛らしい。

台風の季節が去り、その青さを増すウミヒルモの森を覗いてみると、タツノハトコが住処を探してホッピングしていた。
なんとも落ち着きのない子である。
僕の目にはどの葉っぱも同じに見えるが、どうにも気に入る場所が見つからないようだ。
尻尾を巻きつけは解き、巻きつけては解き、ウミヒルモの間を移動していく。

他にも色んな出会いがあったが、結局午前中は何も撮れずに上がってきた。
正確に言えば、何枚かシャッターは切った。
でも、どうにも気持ちが入らず、しっかり向き合えた生き物はいなかった。

まあ、それはそれでいい。
自分で自分に言い聞かせていると言えばその通りだ。
でも、本当に「それでいい」と思っている。

僕たちは、カメラ持って水中で暮らす生き物たちと向き合っている。

被写体は自然だ。
当然、僕らの意思とは関係なく、自然は自然の摂理に従って動いていく。
僕たちがどんなに気合を入れようが、技術を磨こうが、あるいはどうしても撮らなきゃいけない事情があろうが、そんなことは自然とは関係ない。

だから、撮れないときは撮れない。当たり前だ。
自分の心にグッとくる被写体と出会えることの方が、本来は稀なことなのかもしれない。
言い換えれば、自然の中でそういう被写体と出会えたということは、とても貴重で、尊いことなのだろう。

では、そんな被写体と出会えれば撮れるのかというと、そうでもない。
たとえ魅力的な被写体が目の前にいたとしても、被写体と自分との間を取り持つ何かがなければ、やはり撮れない。
その「何か」が何なのかは、はっきりとはわからないのだけれど。

撮らない選択

サンドイッチを食べ終えると、いつものように星野道夫さんのエッセイ集『旅をする木』を読み始める。
休憩中、何度か他の作家さんの本を読んでみたこともあるのだけれど、ここで読むには、なぜだかこの本が最もふさわしい気がしている。

星野さんの文章を読んでいると、しばしば「撮らない」という選択をしていることに気づかされる。
「撮れない」日々が続き、何としても撮りたいという思いの中でなされる「撮らない」という選択。

その決断の重さを表現する言葉が、今の僕には見つけられない。
でも、カメラを構えることによって壊れてしまう何かがあるということは、なんとなくわかる気がする。
撮りたいという強い気持ちやそれに伴う行動が、せっかくつながりかけた自然との関係を断ち切ってしまうことは確かにある。

もちろん、撮る撮らないの判断だって、自然とのつながり云々だって、人が勝手に言ったり思ったりしているだけだ。
それでも、星野さんの写真が今も多くの人々の心の奥底に何かを語り掛けてくるのには、彼のそういう姿勢が影響しているように思う。

クジラを思う

1時間ほど休んだので、そろそろ潜る準備をしなければならない(別に何分休んだってかまわないのだけれど)。
ちなみに、今読んでいたのは「もうひとつの時間」。
『旅をする木』の中に収められた、大好きな一遍である。

星野さんの南東アラスカでのクジラ撮影に同行した、東京で働く女性編集者の言葉として、こんな一節が出てくる。

「東京での仕事は忙しかったけれど、本当に行って良かった。何が良かったかって?それはね、私が東京であわただしく働いている時、その同じ瞬間、もしかするとアラスカの海でクジラが飛び上がっているかもしれない、それを知ったこと……東京に帰って、あの旅のことをどんなふうに伝えようかと考えたのだけれど、やっぱり無理だった。結局何も話すことができなかった……」(『旅をする木』P123より)

僕はアラスカには行ったことがないけれど、今年の夏、自宅のカレンダーをめくった時、似たようなことを思った。
2021年版の星野道夫さんのカレンダーは、壁掛け用も卓上用も、どちらも8月にザトウクジラの写真が採用されていた。

そうか、アラスカで暮らす人々、アラスカを訪れる人々にとっては、夏がクジラの季節なのか。
冬になると沖縄にやってくるクジラたちは、今頃極北の豊かな海で、たっぷり餌を食べているんだな。
そして、時折思いついたように水面から飛び上がったりして、人々を喜ばせているんだろうな。

そんなふうに思った。
冬の終わりと共に去っていくクジラたちが、今は北の海でそれぞれの時間を過ごしているというのが、なんだか不思議な気がした。
それと同時に、そんなことを意識できるということがどれだけ幸せなことか、少しだけわかった気もしたのだ。

あと1ヶ月もすれば、名護湾の水中にもクジラの歌声が響き渡るだろう。
その頃には自分も、クジラの撮影に明け暮れているはずだ。

沖縄にクジラの季節がやってくるまでのもうしばらくの間、時間の許す限り、僕はこの名護湾で小さな生き物たちと向き合おうと思う。
今では名護湾で潜ることが、僕が名護で暮らす理由そのものだから。

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上出俊作

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水中写真家。 1986年東京都生まれ。 名護市を拠点に「水中の日常を丁寧に」というテーマで、沖縄の海を中心に日本各地の水中を撮影。 被写体とじっくり向き合う...

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