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伊豆ダイビングエッセイ〜井田のガラスハゼとユキダルマ〜

海のレポート

沖縄に居を構える水中写真家・上出俊作さんによる、海とダイビングにまつわるエッセイをお届けします。

今回、上出さんが向かったのは西伊豆のダイビングスポット井田。
「いいじゃないか。好きなんだから」と好みの被写体に昂りながら、写しとった写真とは……?
そして、最後に綴られた上出さんが考えたニックネームは、果たして定着するのでしょうか。

おだやかに、そして、ユーモラスに。
上出さんが見て感じて撮った井田の海を、ぜひ味わってください。

井田の海へ

大きな富士山が見える。
いや、違う。別に間違えてはないのだけれど、ちょっとニュアンスが違う。
「富士山ってこんなにデカいのか!」というのが素直に感じたことだから、「富士山が大きく見える」と言った方が正しいのかもしれない。

小学生の頃に暮らしていた東京の家からも富士山が見えていたけれど、あれはテントウムシくらいの大きさだった。
それに比べてここから見る富士山は、目を背けようとしても視界に入ってくるくらいの大きさだ。
とても富士山らしく、堂々としている。

富士山の裾には雲がかかっている。
つまり、雲から富士山がニョキっとはえている。
葛飾北斎の作品にこんな画があったような気がするけれど、本当にあるのかどうかはわからない。

今、僕が住んでいる沖縄には、こんなに山らしい山はない。
というか、日本全国どこを探しても、富士山以上に山らしい山はないのかもしれない。
これまで富士山のことを、ただの「日本一高い山」だと思っていたけれど、そうではなかったことに気がついた。

富士山とは、日本一山らしい山なのだ!
と、今さら僕が叫んだところで、何の意味もないというか、すでにみんな知っていたのだろうけど。

海の向こうに富士山を眺めながらドライブしていると、間もなく井田に到着した。
鈍色の石ころが敷き詰められた海岸を、北東の風が爽やかに駆け抜けていく。
伊豆半島の西側に位置する井田の海は、秋晴れで最高のコンディションだ。

ダイビング器材のセッティングを終えると、ブリーフィングが始まった。
ガイドを担当してくれるのは、井田ダイビングセンターの店長、カマちゃん。
カマちゃんの本名は出竃(でかま)さんというのだけれど、みんなからカマちゃんと呼ばれているので、僕も今年から、まるで以前からそう呼んでいたかのようにカマちゃんと呼ぶことにした。

井田には3年続けて来ている。
ここの海が好きというのはもちろんある。でも、それ以上と言っていいくらいに、カマちゃんのガイドがいい。
そして、こんなことを言ったら本人に怒られるかもしれないけれど、カマちゃんの本領が最も発揮されるのがブリーフィングだ。

iPadを片手に、井田らしいシチュエーションや旬の生き物を紹介してくれる様は、まるで三ツ星フレンチで働くシニアソムリエのよう。
知識や情報を、むやみに押し付けたりしない。
自然なコミュニケーションの中からニーズをくみ取り、ゲストの口に合いそうな選択肢をすっと提案してくれる。
「こんなのもありますよ」とカマちゃんがiPadを差し出すと、ゲストの表情がパッと明るくなる。

カマちゃんの話によると、ちょうど最近ハゼやスズメダイの幼魚が増えてきたらしい。
どうやらいい時期に来たようである。

井田の海でハゼやスズメダイと言われれば、一番に僕の頭に浮かぶのはガラスハゼだ。
ガラスハゼ自体は沖縄でもよく見るけれど、井田のガラスハゼは生息環境がいい。

沖縄では、ムチカラマツを住処にしているガラスハゼをよく見る。
これはこれでいいのだけれど、はっきり言って、華やかさはない。
一方井田のガラスハゼは、ムチヤギとかクダヤギとか、いろんな種類のヤギを住処にしている。
これが、とてもいい。写欲が沸き立つとでもいうのだろうか。

ムチとかマツとかヤギとか、海の話をしているのかどうかも怪しくなってきた。
このままではまずいので、簡単に整理しようと思う。

分類学的にどれくらいの距離があるのかは別として、「カラマツ」と「ヤギ」は見た目が全然違う。
(どちらもざっくり言えばサンゴの仲間ではある。)

海底の岩からびよーんと、場合によっては人の背丈よりも高く伸びているのがムチカラマツ。
沖縄ではクリーム色っぽい群体をよく見る気がする。
他にも真っ白な群体や赤っぽい群体も見たことがあるから、きっといくつか色のバリエーションがあるのだろう。

サンゴの仲間なので当然ポリプがあるのだけれど、これがなんというか、くちゅっとしている。
ポリプが開いている時でも、やけに小ぶりで控えめで、はっきり言って地味なのだ。
写真映えしないとまでは言わないが、ムチカラマツを見て「おー!」とテンションが上がる人はちょっと変わり者だと思う。

それに比べてヤギの仲間は、だいたい膝くらいの高さでそれほど大きくはないけれど、ポリプが開くと、それはもう華やかというか花である。
赤、黄、青、白など、種類によって色も様々。
咲き誇るポリプだけを撮影しても、お花畑のようで美しい。
沖縄で見かけることもあるにはあるが、井田の海はこのヤギの仲間が特に多くて、種類も多様なのだ。

ヤギにちっちゃなガラスハゼがついていたら最高だな……
そんな下心を胸に、一年ぶりに井田の海に入った。

ポリプとガラスハゼ

ブリーフィングの際、カマちゃんに「ヤギのポリプ絡みの生き物を撮りたい」と伝えていた。
非常にまわりくどい言い方だと思う。素直に「ポリプが開いていて、そこにガラスハゼがいたら撮りたい」と言えばいいではないか。
でも、カマちゃんはそんなことは指摘しない。

ヤギが群生している場所にたどり着くと、「上出さんはこれですよね?」という感じで、やはりカマちゃんは嫌味なくポリプに埋もれているガラスハゼを紹介してくれた。

他にもスズメダイの幼魚を撮ったり、ウミタケハゼの卵を撮ったり、それなりに色々撮影した。
でも、どうにも気持ちが入りきらない。気が付くと自分の目が、ガラスハゼを探して彷徨っている。

そんなわけで、紹介してもらった被写体からこっそり離れて、僕は何度もガラスハゼを撮影していた。
去年もさんざん撮ったのは覚えている。でもいいじゃないか。好きなんだから。

懲りずにガラスハゼばかり撮影していたら、カマちゃんが静かに声をかけてくれた。
「極小の個体がブルーポリプに乗ってます」
スレートに書いてある「ブルーポリプ」という文字が、怪しく輝いている。

その瞬間、去年井田で撮影したアカスジカクレエビの写真を思い出した。
暗闇に咲く青い星。間から目だけを出してこちらを覗く不思議な生き物。
なんだか宇宙っぽくて、お気に入りの一枚だった。

「あの雰囲気でガラスハゼバージョンが取れたら面白いな」
そう思って、誘いに乗ってみることにした。

いざ見てみると、思っていたよりも小さい。
体長7㎜、顔の直径が2㎜というところだろうか。
ヤギのポリプというのは、何かに触れられると閉じる習性がある。
そのため、ヤギ全体のポリプが開いているように見えても、ガラスハゼが乗っている場所だけ閉じていることが多い。

しかしこのブルーポリプは、ガラスハゼが乗っている場所でもほとんどポリプが閉じていなかった。
ガラスハゼが小さすぎて、ポリプとポリプの間に収まっているからだろう。
おかげで、ポリプのベッドに包み込まれるようなイメージで、ガラスハゼを撮影することができた。

君の名は。

僕の利き目は右目なので、よっぽど特殊なケース以外は、右目でファインダーを覗いている。
じゃあ左目はどうしているのかというと、よくわからない。
開いていることもあれば、閉じていることもあると思う。
正直あまり気にしていないのだけれど、少なくともその時は開いていた。

アミメハギの幼魚を撮っている時だったと思う。
左目の視界の端っこの方で、白くて小さな何かが揺れていることに気づいた。

それはとても控えめで、強く何かを主張してくるというわけではない。
でもなんとなく、見逃してはいけない大事なサインのように感じた。

ファインダーから目を離し、体を左に向け、両目でしっかりと見てみる。
「あ!」と声が出た。

僕はなぜこの子の存在を忘れていたのだろう。
井田といえばこの子じゃないか。そして、僕はこの子が大好きだったじゃないか。
いくら自分が飽きっぽい性格とはいえ、あんなに愛していた子の存在をすっかり忘れていた自分に嫌悪感を覚えた。

フウセンカンザシゴカイ。
その響きを聞いただけで、心の中にポッと温かい光が灯る。

風船・簪・ゴカイ。
海の中で風船が見られるなんて、なんだかおとぎの国みたいで素敵。
簪というのも、趣があっていい。水中で江戸時代に思いを馳せられる。カンザシヤドカリもイバラカンザシも、大好きな被写体だ。
そしてゴカイ……ゴカイ?釣りの餌になる、ニョロニョロしていて、足がたくさんある、あのゴカイ。

僕が恋慕していた子の正体がゴカイだったというのは、狐につままれたような気分だ。
ゴカイという言葉には、風船の楽しさも、簪の艶やかさも、全て吹き飛ばしてしまうだけのパワーがある。

目の前のフウセンカンザシゴカイを、再度眺める。
今、自分の目に映っているものだけを、真っすぐに見る。

名前も分類も、なんだっていいじゃないか。
そんなもので、いったい君の何がわかるというのか。
僕はフウセンカンザシゴカイの、綺麗な部分だけを見つめることにした。

綺麗な部分だけを見るもなにも、実際には、綺麗な部分しか見えない。
ニョロニョロのゴカイっぽいところは穴の中に入っていて出てこないので、見ようとしても見えないのだ。
なので僕もフウセンカンザシゴカイの全身は見たことがないのだけれど、白くてふぁさふぁさした部分とニョロニョロの部分のギャップを想像するとぞっとする。

最初はひとつの個体に気を取られて気づかなかったが、よく見ると周りはフウセンカンザシゴカイだらけだった。
まるでもののけ姫に出てくるこだまのようだ。暗い海の中で、あっちからもこっちからも浮かび上がってくる。

これだけたくさんいるんだったら、ニコタマも見つけられるかもしれない。
ニコタマというのは、通常1つだけついている風船が2つついている個体のこと。
日本全国でそう呼ばれているのかは知らないけれど、カマちゃんがそう呼んでいたので即採用した。

はっきり言って、僕は珍しい生き物を探すのが得意じゃない。
だから、まあ見つけられないだろうと心のどこかで思っていた。

けれども、案外あっさり見つかった。めちゃくちゃ嬉しい。井田に来てよかった。
撮影しているうちに、違和感を感じ始めた。聞いていた話と何か違う。

同じ大きさの風船が2つ、それぞれ本体からびよーんと伸びてついている。風船どうしは離れている。
それがニコタマのイメージだった。確か、そんな写真も見たことがある。

でも目の前のニコタマは、大小2つの風船がくっついている。
これはこれで可愛いけれど、ニコタマと呼んでいいのだろうか?

上がってから、「それはニコタマじゃないですよ!」とカマちゃんから言われたらどうしよう。
「君が思っているニコタマとは違うかもしれないけど、玉が2個あるんだからニコタマはニコタマだろ!」と反論しようか。
そんなしょうもないことを考えながら撮影した。

結局、これが正規のニコタマかどうか、上がってからも確認しなかった。
そして僕は決めた。勝手に名前をつけてしまおう、と。
生き物にニックネームをつけられるチャンスは、そうそう巡ってくるものではない。

小さな白い球と、大きな白い球。
誰がどう見ても、これは雪だるまだろう。
ニコタマに倣って、「ユキダルマ」としようか。
先人への最低限の敬意は必要だ。

おそらく今後、「私もユキダルマを撮りたい!」というダイバーが、井田に押し寄せるだろう。
ニコタマにユキダルマ。フウセン。やっぱり名前は大事だ。その先はもう言わない。

来年井田を訪れた際にでも、ユキダルマという愛称が定着したかどうか、カマちゃんに聞いてみよう。
もしかしたら、お陰様でお客さんが増えました、と感謝されるかもしれない。

逆に、「勝手なことばっかり書かないでくださいよ」と怒られないことを祈っている。

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上出俊作

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水中写真家。 1986年東京都生まれ。 名護市を拠点に「水中の日常を丁寧に」というテーマで、沖縄の海を中心に日本各地の水中を撮影。 被写体とじっくり向き合う...

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