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奄美大島フォトエッセイ〜クジラを探す、その時間の幸せ〜

海のレポート

沖縄に居を構える水中写真家・上出俊作さんによる、海とダイビングにまつわるエッセイをお届けします。

クジラの季節、奄美大島へ。
昨年のふとした気づきから、今年は気持ちを新たにクジラと向き合われた上出さん。

クジラと出会える幸福を丁寧に紡ぎ出します。

クジラの瞳

クジラが目の前を、ゆっくりと通り過ぎていく。
それはまるでスローモーションを眺めているようで、注意して見ていないと、動いていることにすら気づかない。

僕はファインダーからそっと目を離し、クジラの瞳を見つめてみる。

きっと目が合うだろうと思った。
でも、クジラは僕を見てはいない。ただ前だけを見つめている。
僕の存在なんて全く気にしていないようだ。

あるいは、人間が気にならないわけではないのだけれど、他にもっと見るべきものがあるのかもしれない。
僕たちのことを気にしている暇なんてないのかもしれない。
きっと彼女には、自然の中で生き抜き命を繋ぐために、やらなくてはならないことがたくさんあるのだろう。

クジラが何を考えているのか、そしてなぜそう動くのか、結局のところ僕たちにわかる術はない。
わからないからこそ想像するのが楽しいとも言えるが、ついつい自分に都合のいいように解釈してしまったりもする。
それが人間の性と言うものなのか、あるいは未熟さであるのか、僕にはまだわからないが、間違いなく自分にもそういうところはある。

自然に意味づけすることなくありのままを受け入れるなんてことが、はたしてできるようになるのだろうか。
その答えは最後まで分からないような気もする。
でも、少なくともこの時の僕は、目の前の存在にただ圧倒されていた。

ファインダー越しのクジラ

実は1年前、ふとあることに気がついた。
それは「肉眼でクジラを見たことがほとんどない」ということだ。

5年前、初めて水中でクジラと出会った時、僕はすでに水中写真家だった。
駆け出しではあったけれど(今もたいして変わらないが)、駆け出しなりの気概で「なんとかクジラを撮ってやろう」と思っていた。

その姿勢は、自然をフィールドに仕事をする者として、褒められたものではなかったと思う。
今思えば、カメラを向ける前に、もっと自然と向き合う時間が必要だった。
とはいえ、それは今だから言えることでもある。
駆け出しの写真家がどうにかして結果を残そうとすること自体は、否定すべきことでもない。

そんな経緯があって、僕はこれまで、ファインダー越しにしかクジラを見てこなかった。
不思議なもので、ファインダーを通して見た景色は、写真を見ないと思い出せない。
しかも、思い出される光景は写真に上書きされてしまっていて、それが実際に見た光景だという実感も自信もないのである。

一方、肉眼で見た光景は今でもはっきりと思い出せる。
2年前、水中にエントリーしてみたらカメラの電源が入らないということがあった。
周りのみんなに知られるのが恥ずかしいので撮影しているフリでもしようかと思ったが、それも滑稽なので、目の前で踊るクジラをぼーっと眺めていた。
「クジラってこんなに大きいのか。」
その時感じたのは、そんな原始的なことだった。

ちなみにその後船に戻った僕は、普段誰にも見せないような俊敏さで船室に駆け込み、カメラのハウジングを開けて予備の電池に交換した。
そして何事もなかったかのように海に入り、凡ミスを何とか取り返そうとカメラにかぶりついた。

奄美大島へ

今年はできるだけ肉眼でクジラを見よう。
そう決めて、1月の中旬、奄美大島に向かった。
撮るべきところだけしっかり撮って、あとはクジラを眺めていようと思った。

クジラの水中撮影を始めて5年。
今までで一番、穏やかな気持ちでクジラと向き合えたように感じている。
クジラが近づいてきては去っていく様子を、何度も自分の目で見送った。

気がつけば、写真が撮れたとか撮れなかったとか、そういうことがあまり気にならなくなっていた。
それよりも、人間とクジラとが無理のない関係を保ったまま、そこにいる全ての人がひとつの時間を共有できていることが嬉しかった。
皆でクジラについてああだこうだと話す時間が、何よりも価値のあるものに感じられた。
たとえそれが形に残らないものであったとしても、その経験は心の中にそっと根を下ろし、生きていくための糧になるのだろう。

クジラを探す時間

水中でクジラと出会うというのは、奇跡のようなことだと思う。
場合によっては人生が変わるような出来事になるだろうし、少なくとも感動はするはずだ。
誰だって生まれてから一度もこれほど大きな生き物を見たことがないのだから、当たり前と言えば当たり前なのだけど。

その大きな感動を得るには、まずはクジラを見つけなくてはならない。
すぐに見つかれば気分もいいが、半日クジラを探しても全く見つからないということもある。
そういう時はけっこう辛い。もしかしたら今日はゼロで終わるんじゃないかと、どんどん弱気になってくる。

でも、ふとこんな風にも思う。
「こんな時代に一日中水平線を眺めて、クジラを探して、それってどれだけ贅沢な時間なんだろう」と。
例えクジラと出会えなかったとしても、その可能性を感じながら過ごした時間には、本当は大きな価値があるのではないだろうか。

今の時代、スマホで検索すればたくさんのクジラの水中写真を見ることができる。
でも、照り返す太陽の眩しさや、船上を撫でる風の柔らかさは感じられない。船の横にクジラが浮上した時の、ブホォッというブローの音も聞こえない。
そこには何の過程もなく、ただハイライトが羅列されているだけだ。

「クジラと泳げた」とか「写真が撮れた」という結果よりも、その過程に一喜一憂することに本当は大きな価値があるのではないか。そう思ったりもするのだ。

朝焼けの空に

ある朝、乗船前になにげなく空を眺めると、満月と半月の間くらいの月がくっきりと西の空に浮かんでいた。
反対側に目を移すと、低くかかった雲が薄っすらとピンク色に染められている。
夜と朝が入れ替わろうとする頃、僕たちを乗せた船は出港する。

港を出ると間もなく、低い山と雲の間から、むくっと太陽が顔を出した。
先ほどまで優しく空を覆っていた薄雲は、元気の有り余る太陽にその場所をあっさりと明け渡したらしい。
東の空が、オレンジ色に強く染まっていく。

そんな光景を後ろに見ながら、船は大島海峡を西に進む。
まるで朝日が背中を押してくれてるみたいだ。
きっと今日も素敵な出会いがあるだろう。自然とそんな気持ちにさせてくれる。

大島海峡を出ると、曽津高崎のあたりで早速クジラと出会った。
水中で観察できるかどうか、まだわからない。でも、僕はもうすでに幸せだった。

ずっとこんな時間が続けばいいな。
そう思うのは、それが泡沫のものだと心のどこかでわかっているからだろうか。

2頭のクジラは、寄り添うようにしてゆっくりと北に進んでいく。
僕たちは付かず離れずの距離で、その様子をうっとりと眺めている。
朝靄のように輝くブローが、僕たちの心を温かく濡らしていた。

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上出俊作

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水中写真家。 1986年東京都生まれ。 名護市を拠点に「水中の日常を丁寧に」というテーマで、沖縄の海を中心に日本各地の水中を撮影。 被写体とじっくり向き合う...

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